翌朝は、本当に最悪の目覚め。
カーテンを開けに来たイヅルの微笑みは、いつもと変わらないけれど。「ねえ、イヅル……昨日のことなのだけれど――」
「ああ、おいたわしや、ビーチェお嬢様。よもや、バージル殿下が、あのように心無い御方だとは……このイヅル、胸が張り裂けそうな想いでございます」芝居がかった台詞回しは、夢ではなかったことの、残酷な証明だった。
本当に、この専属執事は。仰々しいわりに、心がこもっていないのよね。婚約が正式に発表されると、王立アカデミーの空気は一変。
肌をちりちり焼く嫉妬や羨望の視線は、予想していた。それならまだよかったのに。――けれど現実はもっと陰湿で、まき散らされたガラス片みたく厄介。どこを歩いても、心を傷つける。
まず、アカデミー内が、二つの色にくっきりと塗り分けられた。
片や、我がシャーデフロイ家に連なる、伝統と格式を重んじる貴族たち。旧家の令嬢たちがドレスを揺らす。「まあ、ごきげんよう。ベアトリーチェ様。この度は、まことに……」
「ええ……ごきげんよう。みなさん」でも、令嬢たちの瞳には、この先の嵐に巻き込まれまいとする慎重さと、ある種の憐憫がありありと浮かんでいたわ。
そして、もう一方。飛ぶ鳥を落とす勢いのシューベルト宰相家に連なる派閥。主に、新興の家柄や、海を越えた商取引で財を成した外資系の貴族たちね。
派閥の中心で、女王蜂のように君臨するのが、宰相の娘ツェツィーリア・ファン・シューベルト。
これ見よがしに高笑いを響かせ、挑戦的な視線を「ふふん」と送って来る。すぐ後ろにいた取り巻きの令嬢らは、わたくしと目が合うと、気まずそうに目を逸らした。
(つい先日までは、みんなお友だちでしたのに……)
わたくしは、望んでもいないのに、『シャーデフロイ派』などという派閥の象徴、張り子の|女王《クイーン》に仕立て上げられてしまったの。
教室も、サロンも、図書館さえも。
チェスの盤上のように、見えない境界線で区切られてしまった。笑顔で牽制、隠された棘を探る、|冷たい戦争《コールド・ウォー》の最前線。「穏やかに過ごせていたはずでしたのに。……なんと、息が詰まるのでしょう」
きっかけは明白、バージル殿下との婚約。
でも、まだ望みを捨てたわけではなかったの。バージル殿下次第では、なんとかできるかもしれないし。 わたくしはなけなしの勇気を振り絞り、殿下に歩み寄る努力を続けた。「殿下、ごきげんよう。先日の歴史学のレポート、拝見しましたわ。古代シュタウフェン朝の聖杯伝説に関するあの考察、とても素晴らしかったです」
アカデミー中庭の木陰で、古書を読む殿下。めくる頁の匂いが、風に乗ってふわりと漂う。
わたくしは、出来る限り自然に、友好的に話しかけたつもりだったの。 けれど、殿下は顔も上げずに、北風みたいに言い放つ。「そうか。……それで?」
「えっ、そ、それで……とは」 「学問の話にかこつけ、私から情報を引き出そうとしても無駄だ。ベアトリーチェ嬢。君の父親が、そう差し向けたのか? 悪いが、余計なことを口にするつもりはない」氷の矢が、まっすぐ胸を貫いたような衝撃。
(違う。わたくしは、ただ、純粋にあなたと仲良くなりたかっただけでっ!)
そんな想いは、か細い吐息にすらならなかった。
殿下の側近、若い護衛騎士ローラント殿が、眉をひそめ諫める。「バージル殿下。淑女にそのような態度は、いささか紳士的ではございません」
「止めるな、ローラント。むしろ、下手に期待を掛けるような態度はとるべきではない。そちらの方が、よほど残酷だ」 「……しかし」 「互いに、割り切るべきだろう。そうではないか、ベアトリーチェ嬢」取り付く島もない。ただ、ローラント殿が気の毒そうに見てきた。
(哀れまないで、ローラント殿。……だって、かえって情けないもの)
結局、何度歩み寄ろうとしても、殿下はわたくしを“シャーデフロイ家の策略”という色眼鏡でしか見てくれなかった。
横たわる、決して埋まらない深いクレバス。わたくしはその淵で立ち尽くし、愕然とするしかなかった。
「……話くらい、聞いてくれてもいいじゃないの」
廊下の隅で、ぽつりと漏れた呟きは、誰に届くこともない。
そんな孤独な日々の中で、一つの噂が、追い打ちをかけるように耳に届くようになった。「ねえ、お聞きになって? 最近、あの氷の王子様が、例の令嬢とよくお話をしてらっしゃるそうよ」
「ええ、ギャニミード男爵家のルチア様でしょ? いつも中庭で、それはもう楽しそうに」 「ルチア様も、平民から養女にしていただけた幸運だけでは、物足りなかったのかしら?」 「神職に携わる御家柄となれば、やはり特別扱いなのね。羨ましいこと」心が、ちくり。ささくれだつ。
(わたくしでは、ダメだったのに? どうして?)
噂を確かめる、なんて殊勝な気持ちではなかった。
ただ、落ち着かなかったの。自分の目で確かめなければ、胸の黒いモヤが晴れない気がして――中庭を見渡せる柱に、そっと身を潜めた。そして、見てしまった。
今まで見たこともないほどに、穏やかで柔和に微笑むバージル殿下を。 隣には、栗色の髪を太陽にきらめかせる、小動物のように愛らしい令嬢が、屈託なく笑っている。差し出した手作りらしきクッキーを、殿下はごく自然に受け取って、口に運んでいた。ええ、一枚の美しい絵画のようで、実にお似合いだった。
わたくしという、異物さえいなければ。(わたくしには、あんなお顔、一度たりとも見せたことがないのに?)
胸がぎゅうっと締め付けられる。
これは、嫉妬? いいえ、違う。もっと惨めで、どうしようもない敗北感。 わたくしがどんなに着飾り、優美な淑女を演じても、決して手に入らない輝き。それをいとも容易く、持っていかれた。打ちひしがれる、わたくし。そんな背中に声が刺さった。
「ごきげんよう、ベアトリーチェ様。そんな物陰でコソコソと、随分と惨めですこと」
振り返れば、勝ち誇った笑みのツェツィーリア様が立っていた。
「あなたに、わたくしの何がわかるというの」
「わかりますわよ。殿下は、腹黒い家の女がお嫌いなの。それに引き換え、ギャニミード嬢はなんて純真で可愛らしいこと! 殿下がお側に置きたくなるお気持ちも、よーくわかるわ」皮肉たっぷりの言葉に、カッと頭に血が上る。
「ですけれど、殿下の婚約者はこのわたくしですわ。あなたではなくってよ、ツェツィーリア様」
「なんですって!?」ツェツィーリア様の顔が怒りで歪む。
「ええ、それこそが最大の謎だわ! 本当なら、家柄も申し分なく、殿下とも昔から親しいあたしが、その場所にいるべきだった」
「……もともと親しかった?」 「そうよ! 幼い頃からお茶会に招かれ、話し相手になり、プレゼントも贈り合ったわ。なのに! いったい、あなたはどんな汚い手を使って、その座を奪い取ったのかしらねっ!」告げられた事実に、むしろその通りだと思った。
(そう、どうして?)
家柄も、王子との親しさも、ツィツィ―リア様の方がずっと上。
彼女はその立場を、心から熱望している。殿下だって、わたくしのことなんて嫌っている。(なのに、なぜ……婚約者は、わたくしなのかしら?)
もうわからない。
なにもかもが、わからなくなってしまったわ。――その夜。 自室で、答えの出ない問いに苛まれ、途方に暮れているわたくし。「うう、ひっく。わけが、わかりませんわ……」 |繻子《サテン》の枕に顔を埋め、声を押し殺し泣く。こんな惨めな姿、誰にも見られたくはない。「お嬢様、いつまでメソメソとなさっておいでで?」 けれど、この屋敷には、わたくしの都合などお構いなしの使用人がいる。 音もなく入室してきた、専属執事イヅル。同情も慰めもない、さらさらとした砂の声で尋ねて来た。「か、勝手に部屋に入って来るなんて、どういうつもりなのよ!」「あまりお心が休まっておられないようでしたので。安眠を誘うハーブティーを、お持ちしたまででございます。ほれ、この通り」 差し出す銀盆には、わたくしが好きなカモミールティーの優しい湯気が薫る。湯気が薫る。でも、苛立ちは止まない。「あなたには、わからないでしょうねっ!」 思わず、枕を投げつける。もちろん、イヅルは柳に風と、身体を少し傾けるだけで涼やかにかわしてみせたけれど。「このっ! わたくしの気持ちなんて、あなたなんかに、わかりっこないんですからっ!」「そうですか。では、このカモミールティーはご不要で?」「それはっ! ……いるけどっ!」 ぬいぐるみとかを手当たり次第、投げつけてみたけど疲れるだけだった。肩で息をする間に、セッティングを整えるイヅル。「もうっ! 本当にあなたって勝手なんだから! 頼んでもいないことばかりして!」「主人に命じられてから動くようでは、二流でございます。それよりも、お嬢様。泣いても、状況は何も改善されませんよ。涙の無駄遣いでは?」「そんなこと、わかってるわよ!」「でしたら、何故お泣きに?」「それはっ! だってっ! 婚約が決まったのに、誰も祝福してくれないし! 婚約者は冷たいし、アカデミーは居心地悪いし、ツェツィーリア様は嫌味を言ってくるしっ!」 その上、ルチア嬢の方が、バージル殿下とずっと親しげだった。 も
翌朝は、本当に最悪の目覚め。 カーテンを開けに来たイヅルの微笑みは、いつもと変わらないけれど。「ねえ、イヅル……昨日のことなのだけれど――」 「ああ、おいたわしや、ビーチェお嬢様。よもや、バージル殿下が、あのように心無い御方だとは……このイヅル、胸が張り裂けそうな想いでございます」 芝居がかった台詞回しは、夢ではなかったことの、残酷な証明だった。 本当に、この専属執事は。仰々しいわりに、心がこもっていないのよね。 婚約が正式に発表されると、王立アカデミーの空気は一変。 肌をちりちり焼く嫉妬や羨望の視線は、予想していた。それならまだよかったのに。 ――けれど現実はもっと陰湿で、まき散らされたガラス片みたく厄介。どこを歩いても、心を傷つける。 まず、アカデミー内が、二つの色にくっきりと塗り分けられた。 片や、我がシャーデフロイ家に連なる、伝統と格式を重んじる貴族たち。旧家の令嬢たちがドレスを揺らす。「まあ、ごきげんよう。ベアトリーチェ様。この度は、まことに……」 「ええ……ごきげんよう。みなさん」 でも、令嬢たちの瞳には、この先の嵐に巻き込まれまいとする慎重さと、ある種の憐憫がありありと浮かんでいたわ。 そして、もう一方。飛ぶ鳥を落とす勢いのシューベルト宰相家に連なる派閥。主に、新興の家柄や、海を越えた商取引で財を成した外資系の貴族たちね。 派閥の中心で、女王蜂のように君臨するのが、宰相の娘ツェツィーリア・ファン・シューベルト。 これ見よがしに高笑いを響かせ、挑戦的な視線を「ふふん」と送って来る。 すぐ後ろにいた取り巻きの令嬢らは、わたくしと目が合うと、気まずそうに目を逸らした。 (つい先日までは、みんなお友だちでしたのに……) わたくしは、望んでもいないのに、『シャーデフロイ派』などという派閥の象徴、張り子の|女王《クイーン》に仕立て上げられてしまったの。 教室も、サロンも、図書館さえも。 チェスの盤上のように、見えない境界線で区切られてしまった。笑顔で牽制、隠された棘を探る、|冷たい戦争《コールド・ウォー》の最前線。「穏やかに過ごせていたはずでしたのに。……なんと、息が詰まるのでしょう」 きっかけは明白、バージル殿下との婚約。 でも、まだ望みを捨てたわけではなかったの。バージル殿下次第では、なんとかでき
この世がすべてひとつの舞台だとして、男も女もみな役者に過ぎぬとしても。 そう。わたくし、ベアトリーチェ・ファン・シャーデフロイの人生は、豪華絢爛かつ、研鑽と叡智に満ちたものでありましたとも。 社交界の華、才色兼備の煌めき。望むものはすべて手に入れ、退屈な殿方からの恋文は暖炉の焚き付けに。 まるで不満はなかったの、何ひとつ! そんな華々しい人生が、ガラガラと安っぽい音をたてて崩れたのは、十六歳の誕生日を間近に控えた、ある晴れた日の午後だったのですわ。 「あら、なんて良い香り。この紅茶、とても美味しいですわね、パパ」 「そうだろう? ようやく届いた特別な茶葉なんだ」 わたくしの言葉に、父は得意げに笑う。本当に素敵。 でも、ちょっとだけ嫌な予感がしたのです。 父は良い話だと、なにかとフライングしがちな迂闊さがあるのだけれど、それともなんだか違うような、妙な気分。 「それで、お話というのは何ですの? そんなに改まって」 そう、忘れもしない。 我がシャーデフロイ伯爵家が誇る薔薇の庭園。伝統ある深紅の品種グラン・アムールから、改良を重ね生み出された幻の青薔薇レーヴ・ドゥ・ニュイまで。 多種多様な花々が競い合う。さながら芳香の舞踏会。 そんな白亜のガゼボからの眺めは、いつだってわたくしのお気に入り。 父であるウェルギリ伯爵が、極上のダージリンを勧めながら、爆弾を投下するまでは。まあ、本当に悪くないお茶会でしたのよ。 「ビーチェ、王太子バージル殿下との婚約が、内々に決まった」 「――は?」 ガチャン。ティーカップを、危うく割るところでしたわ。 王太子殿下との婚約。 この国における、女性にとっての最高の名誉。いずれ国母となる、栄光への階梯。心臓が、期待に、大きく跳ねる。 もちろん、わたくしにこそ相応しい立場ですとも! 「まあ、お父様っ! わたくしが殿下と!?」 「いかにも。王たっての願いだ、光栄なことだよ」 ええ、当然よね。だって、わたくしですもの。 でも、そんな喜びも束の間よ、すぐに冷静になったの。“麗しの”バージル殿下のお顔が浮かんだ途端にね。 (えっ、でもアレと結婚するの!?) まず、顔は良い。そこは認めますわ。 陽光を溶かし紡いだ金髪、|湖の青《レイクブルー》を閉じ込めた